あこがれの信州暮らし その157(2017年4月)
無事を祈る
稲角尚子
庭のハナモモの花芽もぐぐっと膨らんできました。ラジオは西日本や東海・関東地方の桜のお花見の話題で持ちきりですが、このあたりの桜の開花ももうじきかな? 裏のサンショの木の根元に広がるわが家の山野草園(!)では、セツブンソウ、キクザキイチゲなどのスプリング・エフェメラル(spring ephemeral)と呼ばれる野の花が次々に咲いています。「春の妖精」と呼ぶにふさわしい、実に可憐な花です。カタクリも葉を広げてきましたよ。不思議なのは、あんなに華奢で小柄で線が細く、はかなげな野の花たちが、強風や霜などの逆境に強いこと。「束の間の」「はかない」という意味のエフェメラルという言葉どおりに、春先のほんの数日間の花を咲かせるために、昨夏から長く地下で栄養を蓄えて「その時」を待ち続ける花々。・・・励まされます。
ここ数年、わが家の上空を飛んで北アルプスに救助に向かうヘリコプターを見ることが増えたなぁと思っていました。畑仕事や庭仕事をしていると、登山シーズン中には連日のようにヘリコプターの音を耳にします。一日に3回も往き来しているのを目撃したこともあるくらいです。それだけ登山人口が増え、それに伴って遭難やケガが増え、救助隊の方々が出動する回数も増えたのでしょう。
3月、長野県の防災ヘリコプター「アルプス」が、山岳救助の訓練中に鉢伏山の斜面に墜落しました。難しい谷であれ急斜面であれ、「何とかして助けたい」と救助に向かっておられたであろう9人の方々の無念の事故死に手を合わさずにいられません。
そうして、先月はもうひとつ痛ましい事故がありました。栃木県那須町で起きた雪崩で、大田原高校の生徒さんたち8人が亡くなりました。「春山安全登山講習会」の中で起きた事故だけに、一層やりきれない気持ちになります。講習会の指導者は「雪のため登山は中止。でも、せっかく来たのだからスキー場のゲレンデ脇でラッセル訓練だけでもさせてあげよう」と考えたのでしょうか。その判断を、事故後に非難することは簡単だけれど、実際に私がその場にいたとしたら、はたして「いや、今日は帰ろう」「引き返して、またの機会にしよう」と言えたかどうか。
新聞報道によると、亡くなった生徒さんの中には「将来は絶滅危惧種を救う仕事がしたい。信州大学で生物学を学びたい」という方がいたそうです。今もいるんですよね。山や生きものが好きで、名指しで「信州に行きたい」と考える若者が。そんな若者の命が、一瞬にして散ってしまった。危険を避けたいなら、危険から遠ざかるのが一番。山に行かないことです。でも、一律に遠ざけることが唯一の解決策とも思えない。
3月下旬、下の息子がナイロビに旅立ちました。これから少なくとも2年間、強盗やテロなどどんな危険に遭遇するかわからないナイロビに常駐するわけで、私も心配し始めたらキリがありません。でも、彼の情報収集能力と危険を察知し回避する行動力、どんな人ともつきあえる人なつこい性質、そして彼の動物的な勘(?)を信じて、無事を祈るだけです。
ただ、これだけは言えますよね。「『戦争』による死は、人智で避けられる」って。
先の事は考えない?
フジサワ ユウイチロウ
カオハガンは採集狩猟の島だった。
フィリッピン・セブ島の横にあるマクタン島の空港から車で30分の港から小さな舟でやはり30分くらいの所にある。ゆっくり歩いて一時間もあれば一周できる小さな島だ。そこに600人くらいの住民が住んでいる。一年中温暖な気候でそれほど暑いとは感じなかった。むしろ、海沿いのロッジは常に風があって涼しいくらいだった。高床式のロッジの床は竹で編んであるので風がよく通る。壁も屋根も島の草で編んだものでできている。
しいて言えば観光業が収入源だが、島民一人当たりの収入は世界で最も低いという。それでも島民はゆったりと暮らしている。
島は大きな環礁に囲まれていて、潮が引いた時はかなり遠くの島まで歩いていけるくらいだ。干潮時には多くの島民がバケツを手に貝などを拾っている。お米は島外から買ってくるが魚介類はだいたい自給しているらしい。昼時にくる中国の観光客にお土産や魚介類を売ったり焼いて食べさせたりしているが、それは島外から仕入れている。
農業らしきものはほとんど見なかったが、お祭りのために豚を飼っている。闘鶏もたくさんいた。賭けに負けるとやはり食べてしまう。
崎山さんという日本人が30年くらい前にこの島を買った。ただ、外人がフィリッピンの土地を買うことは禁じられているので、法人を作って購入した。その法人の株も4割を超えてはいけない。現地の不動産屋に薦められて共同で買うことにしたらしい。と言っても島民の居住権は補償している。持続的で環境にやさしい暮らしを共に維持していくという約束で暮らしているという。10棟くらいのロッジとバンガローと母屋で宿泊業をしている。客は主に日本人だ。入れ替わり立ち代わり日本人が来る。セブ島からも日帰りでココナッツオイル作りのツアーに若い女性がきた。
日本人スタッフも二人いた。島が気に入って島の男性と結婚した女性である。現地スタッフの作る食事はたいへんおいしかった。崎山さんや他の客との会食も楽しかった。潮干狩りと保護区でのシュノーケリングに参加した。水も綺麗でサンゴや魚の種類も豊富だった。しかし、近くの浜辺は貝も取りつくされていて素人では見つからないが、島民が掘るとなぜか出てきたりする。
私はほとんど寝て暮らしていた。なんだか眠くなる島だった。ロッジの前の砂浜から見る夕焼けと朝日は雄大で星空も安曇野以上に綺麗に見えた。
日本人の女性と結婚して日本で有機農業を始めた島民もいるらしい。しかし、今は離婚して工場で働いているという。その理由が衝撃的だった。「農業は先のことを考えなければいけないから嫌いだ」というのだ。島にいれば貝を拾ったり魚を釣ったり、その日の糧さえあれば生きて行ける。家も服もたいしたものはいらない。例え台風が来て家が飛ばされても流れ着いた材料ですぐ立て直してしまえるのだという。その日その日を楽しく生きられればいいということだろうか?まだ痛みが残り今年の農作業はどうしようか、と悩む私にとってはうらやましい限りである。黒魔術で治療する時間がなかったのも残念だ。
馬と女。
佐々木優子
今回もお馬の話です。娘の乗馬の先生から、万一の為にと、保険に入ることを勧められました。しかし、それを無視した私。落馬は、時には大怪我をすることを私も知っています。そして、競馬の騎手が、落馬によって致命傷を負ったニュースを耳にしたこともあります。しかし、うちの娘はまだ初心者です。たいしたことはやっていません。私は先生を信頼しています。その先生がつきっきりで手綱を引いてくれています。万が一なんてないはず。大怪我なんてしないよね、と軽い気持ちだったのです。
しかし、保険に入っていないことを再三注意されたので、それでは「乗馬とはどれくらい危険なのですか?教えてくださいよ。」と、皆さんの正直な意見を聞くことにしたのです。先生だけでなく、乗馬を習いに来ている若者にも、同じく尋ねることにしたのです。そして・・・、聞いて、びっくりー!
「99%の信頼と1%の危険」ですって!その1%の話が本当に怖かったのです。
実際身近に起こったという、大怪我をした人の話をいくつか聞かされました。お馬さんはとても臆病な生き物で、小さな虫の襲撃や、突風で揺れた木の枝ぐらいで反応してしまい、簡単に暴走してしまうそうです。馬主の飴と鞭で手なずけられた愛馬でも、最後は自分の身を守るという事。しかし、99%は馬を信用して良いというのですから、悩ましい限りです。そして、これから先も娘に乗馬をやらせるのならば、そして、その危険性を確認したければ、お母さん自身がやってみることが一番、だと。本当にその通りですよね。
そもそも、なぜ、こんなに心配性な私が、かわいい大切なひとり娘に乗馬をやらせようと思ったのか?
それは直感です。私は直感を大切に、そして何よりもそれを優先したいと願っている人間なのです。もちろん、直感で生きていては社会生活が成り立ちませんから、そこは臨機応変にやっておりますが・・・。
かなり飛躍した話になりますが、行き着くところは、何かあったら逃げて欲しい、生きていてほしい、という原始的な欲望からくる感情が理由で、乗馬を習わせているのです。こういう話を、都会で暮らす夫や友人に言うと、大笑いされるのがオチですが、北海道の道東で馬と共に暮らしている人々に、私のこの熱い思いを話すと、大いに共感してもらえるのです。本当に素晴らしい人々に出会えました。実際に戦後の混乱期に、馬のおかげで命が助かったという方が、今なお、ご健在の土地なのですから。
そして、今現在、私が訪れた牧場には、馬に乗りたいという若い女が集まっているのです。家畜の世話をしながら乗馬を習いに来ている若者は、圧倒的に女子が多かったのです。この事象は、女はカンがよく、将来の不安への備えをしているのではないのか、とさえ思えました。(これは私の妄想に過ぎませんが)。
(妄想はおいておいて)、現在のこの安泰は、長い歴史の中でも稀であり、不自然な現象、だと私は思います。常に、災害、獣や敵の襲撃から身を守ってきた人類。何か起こりはしまいかと不安になったり、心配したりする感情がわいてくるのは自然なのではないか、と思うことがあります。現に、安穏が長く続くと、逆に不安になりませんか?私はなります。
さて、高所恐怖症を理由に乗馬を避けていた私ですが、とうとう馬の背に乗り、散歩に出かけることに。もちろん、ベテランのガイド付きです。その役目を買って出てくれたのが、娘の先生のお師匠さん。この方は、思想もしくは哲学者と言っても過言ではないくらい思慮深い方で、本当に素晴らしいガイドを務めてくれたのです。お師匠さん曰く、「客の能力以上の力を引き出せるか否かが、ガイドの力量にかかってくる」と、おっしゃる通り、引率は素晴らしかった。お陰で私は乗馬の世界を垣間見ることができたのです。
そこにあったのは「支配と服従」。自分よりもはるかに体が大きい生き物を操っているという、優越感に私は酔いしれることができたのです。思いもしなかったこの感情に恥ずかしさを感じたくらいです。馬を支配することがこんなにも快感とは。危険を冒しても乗馬にのめり込む気持ちが理解できたのです。
この「何ものかを支配する」という魅惑的な感情はいったいどこからくるのでしょうか?非常に危険です。これ、人類が未だに争いを止められない理由のひとつなのではないでしょうか?獣を服従させたい、しいては、他者を服従させたい・・・なんてね。(私の妄想は止まることを知りません)。
実際は、お馬さんにベロベロなめられたり、甘噛みされたり、馬糞を踏んだりと、戯れていると体中が馬の毛だらけになって馬臭くなってくる。化学物質過敏症やアトピーなどのアレルギーが吹き飛んでしまうくらい、不思議と頭も体もクリアな状態になります。それは海水浴に行って、波にのまれて鼻の中にも海水が入ってきて、ツーンと痛くて、やっと砂浜に上がって、体中が海水と砂まみれになっていて、呆然と海を眺めている時と同じくらい無の状態です。それは、とても平和的な気持ちになれるのです。
この地球の上で(芽吹き)
Yakko
庭の水仙やチューリップの芽が出て、クリスマスローズの花芽も枯れかかった葉の間から顔を出している。「芽」は、どれも初々しく力に溢れているが、台所のじゃが芋の芽だけは、なんとも厄介だ。おやおやの店先に、鹿児島産の新ジャガが並び始めたので、ヒネジャガを早く食べなければと急かされているようだ。松本ではまだ種イモの植え込みも始まっていないのだから、じっくりいけばいいのだけれど、じゃが芋料理がしたくなった。シチュー、ポテトサラダ、コロッケ、肉じゃがの定番はもちろんのこと、こんなのはいかがだろう。
じゃが芋団子
じゃが芋600gを茹でてマッシュする。さめてから、すりつぶし、片栗粉200gを混ぜ、よくこねる。直径3センチの棒状にまとめ、ラップやすだれで形を整える(冷蔵庫で4~5日保存できる)。これを5ミリの厚さに切り、茹でる。炒ったクルミをすりつぶしたもの、砂糖、醤油を水でのばしたクルミだれとの相性は抜群!
じゃが芋(カムジャ)チヂミ
韓国料理店「やんちゃ坊」の張琴順さんの「韓流おかずは野菜がいっぱい」(信濃毎日新聞社)のレシピより。直径24㎝1枚分。じゃが芋300gを皮をむいてすりおろす。にら適量を3センチに切り、にんじん適量を3センチ長さの千切りにする。塩少々とじゃが芋に混ぜる。半量をフライパンに入れ、スライスチーズをのせ、もう半量をかぶせて焼く。(チーズを入れなくてもおいしかった)ヤンニョム(つけだれ)―醤油、みりん、酢、粉唐辛子(私はコチジャンを使った)、白ゴマなどで作る―をつけて食べる。つなぎの粉を入れなくてもモチモチです!
スペイン風オムレツ
卵4個、塩コショウに、じゃが芋200gをゆでて荒くつぶしたものを加えてフライパンいっぱいに入れ、蓋をして焦げないように両面焼く。グリーンピースやパプリカの微塵切りを入れてもいいかも。ボリュームたっぷりのオムレツです。
・・・他にもじゃが芋ニョッキ、サモサ、じゃが芋のケーキ、じゃが芋パン、フライドポテト、作りたいものが次々に浮かんでくる。
一日中台所にいたいけれども、そうとばかりもいっていられない。3月12日は福島第1原発事故から6年の脱原発の集まりとデモ。年間線量20ミリシーベルトで帰還せよと言っているのはおかしい。そこで食べたり飲んだりしてはいけないという放射線管理区域より高い線量の所に帰っていいというのは、どう考えておかしい。3月19日は塩尻で、市民と野党の共同候補として参議院選で当選した杉尾ひでやさんを迎えての集まり。3月26日はパーマカルチャーの有機農家、グリーンエネルギー、ごみゼロ、脱石油・地球温暖化防止のための地域づくりなどに取り組んでいる人々のドキュメンタリー映画「Tomorrow」をみる。4月2日は野党共闘をめざす市民と政党のつどいで平成の治安維持法といわれている共謀罪を考える集まり。4月5日~9日は、沖縄辺野古大浦湾の海の生物をダイバーたちが撮った写真展。辺野古基地建設の工事は始まってしまった。沖縄に基地を押し付けている私たち本土の人間は、沖縄の人々に、海に住む多様な生物に、思いを寄せ続けたい。
春の芽吹きの季節の中で、私たちも芽吹いていこう。
あこがれの信州暮らし その156(2017年3月)
座敷が倉庫と化して
稲角尚子
「ずっと馴染みの地で暮らしたい」と望んでいた一人暮らしの義母(83才)が移住を決断し、2月下旬に引っ越しをしました(よくぞ決断してくれました)。もちろん、その具体的な手続きや引っ越し作業は私たち夫婦が全面的に請け負って・・・。
この半年の間に2軒の家を、4年前の私の実家を含めると全部で3軒の家を私たちが次々に引き払ったことになります。こう続けざまに家を片づける作業をすると、人ひとりが生きていくのに、なんとたくさんのモノに囲まれていることか、と思います。
大家族での生活であれば、その中の一人がたとえ亡くなったとしても、家財のほぼすべては残った家族が引き続き使うことができました。でも、私たちが片づけた3軒の家はともに一人暮らし。一人暮らしとはいえ、家財道具は一式、それぞれにあります。それなのに、関係する親族の人数は少なく、各地でバラバラに生活していて、それぞれに所有しているものばかりです。たとえ何か譲ってもらいたいものがあったとしても送料の方が高くつく。
なにも親族に限定してリサイクルしなければならないってことはありません。誰かがどこかで使ってくれたら、と電話帳をめくってリサイクル業者に連絡するものの、使用年数が短いものでないとなかなか引き取ってもらえません。これが、片づける私たちの地元であれば「譲ります」と近隣に知らせる術があるのですが、遠隔地だとそうはいかない。第一、片づけに行く日数が限られていて(今回は1週間)、そんなリサイクル運動をやっている暇がないのです。こうして、昨日まで人ひとりが使っていた“必需品”が、きょうからは“不用品”や“ゴミ”になってしまいます。これがつらい。今の日本で、どれだけの家財道具、生活用品が「処分」され、“ゴミ”になっているかを考えると、途方に暮れそうになります。
欧米にはムービングセール、ヤードセール、ガレージセールなどと呼ばれる、各家庭が引っ越しを契機に、あるいは家の中の整理のついでに、不用になったものを格安で売るリサイクル活動があります。私たちも、20年以上前に家族で過ごしたアメリカで、これらのセールをフル活用して、ほぼすべての家財道具を揃えました。庭や軒先、車庫でやることが多いので、当然、好天の日が多く、ワイワイガヤガヤといった笑い声や、色とりどりの風船がたくさん浮いていたりすると、まず間違いなく、それだとわかります。旧知の友人でもあるかのように笑顔で家の中に招き入れられることも多く、子どもらはいつのまにかジュースなんぞをもらっていたり・・。私たち親にとっても、普通の人の家の中を見る機会になって「ふ~ん、こんな暮らし方してるんだ」と興味深く、病みつきになってしまいました。見るからにお金持ちの留学生が超格安で譲ってくれたベッドなんぞ、帰国時には担いで持って帰りたかったくらいです。
あぁ! 今、わが家は、3軒の家にあったモノの中から、あまりにもったいないモノ、心情的に「処分」できないモノ、「とっておいて」と頼まれたモノ、モノ、モノに溢れています。加えて、ロンドンにいる上の息子の大量の本もありますし、この4月からは下の息子のナイロビ駐在(2年間)が決まりました。こうなってくると、賢いハズの、さすがの私も、どの段ボールが誰のモノなのかの判別が難しくなってきました。赤、黄、緑、青、茶と色分けしたガムテープでせっせと名前を貼り付けております。
旅先から、こんにちは。
佐々木優子
昨夕、私は、娘を背に乗せたポニーと、本当は漁師さんなのだけれども、冬なので、牧場に働きに来ている青年と、夕暮れ時、散歩に出かけました。数時間前に知り合ったばかりなのに、彼は私に心を開いてくれて、私と娘が退屈しないようにと、馬のあつかい方や、流氷の話などを聞かせてくれました。そこから彼が、ここを好きで、自分が今やっている事に、自信と誇りを持っていることが伝わってきます。私もそうありたい。そして、目の前の景色のすばらしいこと。広大な牧場に降り積もった雪が、風でサラサラと流れていく様は、まるで真っ白な川のよう。そこを地平線に沈む夕陽が照らしています。
数日前、私がいた暮らしとは別世界がここにはあります。私はこの時間、本来ならば、娘を小学校に迎えに行って、夕陽がさし込む、車や人々の往来が激しい交差点を渡っている時間です。
今、私は北海道の中標津にいます。昨日は、流氷を見ようと、羅臼まで行きました。
「昨日、行ってしまったんだよ」と、肉屋の女性が説明してくれました。突然来て、突然行ってしまうそうです。それでも海岸沿いに、ほんの少しだけ残がいがあって、娘と記念撮影をしました。昔はもっとたくさん来たそうです。そして厚みがあり、人が乗ることもできたそうです。国後島まで行けたのかもしれませんね。歩いて・・・。
「あー、見たかったなぁ」でも、自然の物だしね。仕方ありません。
それに、旅は目的が達成できなくても、おまけ(昨夕の牧場の夕陽とか)が大切なんです。たまたまコロッケを買いに入った所の肉屋のおばちゃんとの会話とか、バスから眺めた国後島とか。それらが、ふだんの生活では眠っている五感を起こしてくれるのです。
北方領土問題とか、沖縄問題とか、教科書読んでもわかんないよね。
足を運んで、実際にこの目で見て、肌で感じること。娘に聞かれて、いつもなら、たどたどしく話している自分が、島を目の前にしていると、説明しながら、私自身が納得してくるから不思議です。争いは、いかに大きな犠牲を払うかっていうことに。
さて、私の突発的な旅。今回の本当の目的はボランティア活動です。
昨夏、道東を旅して、娘は乗馬に初挑戦しました。その時の先生から誘われたのです。保育園にポニーをたくさん連れて遊びに行くそうです。そのお手伝いです。
お馬さんは利用できなくなると、即食肉になるそうです。人間に見放された馬たちも含め、十頭近くの馬と一緒に生活している娘の先生は、かなりワイルドな指導をされます。鞍や手綱を一切つけずに裸馬にも乗せてくれます。たてがみを手綱がわりにするのです。こういった方法を初心者の子供にもやらせることができるのは、自分の馬たちをとても信頼しているからです。
人間不信になってしまった馬は言うことを聞きません。見放された馬を手なずけるには、とにかく愛情をそそぐことだそうです。そして、たくさんの人間にふれさせることが大切だそうです。人間はこわくないよ。あなたを食べたりしないよってね。だから、いっぱいなでてあげてね。話してあげてね。
昨日久しぶりに会えたお馬たち、冬気がフカフカで温かいです。人間を好きな馬はすぐによって来ます。遊んで、遊んでってね。そして、ヤキモチも焼きます。油断して、おしゃべりに夢中になっていたら、ガブッと、あまがみされました。痛かったけど、なんだかうれしかったです。
都会でのマンション暮らし、動物とふれあう事がめったにない娘にとっても、良い機会になりました。未知との生物への恐怖心を捨て、信じ合うこと、大人になってからでは難しいです。
不信は、お馬と人間の話だけではありません。世の中の事を知れば知るほど人を信じられなくなっていく。漠然とした将来への不安。どこへ向かっているのでしょうか。より良い方向へ行くことはできるのでしょうか。
お金は分配の道具である
フジサワ ユウイチロウ
なんとか生きている。少しずつではあるが痛みが減っている。家事も少し手伝えるようになってきた。運動もストレッチや歩行もできる。これからはリハビリも必要になるだろう。
そんな意味もありフィリッピンのカオハガン島に行くことにした。暖かいところで十分日光を浴びてリハビリに専念したい。
カオハガン島は尚子さんの小田原在住時代の友人が関わっているという小さな島で、島民は自給自足で暮らしていて、そこを日本人が買った。経済成長主義の日本社会の在り方に疑問を持った人がカオハガン島とその島民に出会って感動し、その生き方を日本人にも紹介したいという思いから購入に踏み切ったという。スタディーツアーを組んで島民と一緒に暮らす体験を日本人に提供している。
私の場合は保養とリハビリが主たる目的だがこうした暮らしには元々憧れてもいた。とにかく、ゆっくりと過ごしてみたい。もちろん、電気も水道も不便極まりないところではある。温泉ももちろんない。毎日入っていた温泉がないのは残念だが、それ以上の価値はあるのかもしれない。ボケーと過ごす時間は日本人には貴重なものではなかろうか。
糖尿病はまだ医者にも行っていない。これ以上薬や注射に頼りたくないので、伸ばし伸ばしになっている。とにかく今は神経痛をなんとかしたい。
糖質制限食のおかげで血糖値も少しずつ下がってもいる。炭水化物を減らすと食事メニューが寂しくなる。大好きな麺類もソバ以外は食べていない。ソバは100%で自分で打つ。それでも食べ過ぎはよくないらしい。肉や魚は元々好きだったが食費がかさむが、満足感は十分あるのでそれほど量は食べなくても大丈夫だ。
糖質制限食はかなり広がっているようで、穀物農家としては逆に心配である。米・小麦は注文以外は減らした方がいいのだろうか。その分大豆を増やすという手もある。いっそ養鶏農家に転換しようか?菜種・荏胡麻油に挑戦することもありか。いずれにしても体が回復しなければどうしようもない。大豆は2年続けて失敗したので在庫がない。醤油はなんとか仕込めたが味噌の分はない。友人に頼んで譲って貰ったので一回分はなんとかなりそう。私は飲めないがおいしい人参ジュースもできた。
多少は本も持っていくつもりだ。
山口薫の「公共貨幣」という本も持っていくつもりだ。関さんは国民通貨と言っている。昔は政府通貨とも言った。世界的にはもはや銀行の債務システムでは破綻するから公共通貨に移行しようという大きな流れがある。スイスが国民投票を決定したので、この流れは世界に波及するだろう。ベーシックインカムも世界の潮流になった。太古の国家も貨幣と一緒に誕生したが、分業によって成り立つ国家では元々分配の道具として貨幣を作った。国民通貨が誕生すれば財源問題や国の借金問題はなくなるのでベーシックインカムなどの分配や様々な格差是正が国家の主な役割になるだろう。日本国内では公共通貨の意見はまだ少ない。山口さんもむしろ外国での評価や研究活動が主だった。同志社大学を追放されるという迫害がまだ日本ではあるが・・・。
この地球上で(安保法制って憲法に反している!だから訴訟)
Yakko
安保法制は憲法に反すると、昨年7月26日、292名の市民が原告となって長野地裁に控訴がなされた。この2月3日には口頭弁論が開かれ、いよいよ本格的に裁判が始まった。長野以外に札幌、福島、群馬、さいたま、東京、横浜、京都、大阪、高知、岡山、広島、山口、福岡、長崎、大分、宮崎、鹿児島と全国で一斉に始まっている。私は原告になっているので、陳述書を書かねばならない。戦争体験者であれば、その悲惨さを綴ることもできるのだけれど・・・どう書こうかと先延ばしにしていた。でも戦争体験がなくてもこの法律は、おかしいと言わなければと書いたのが以下の文。
私も声を上げたい!という方!第2次原告団を募集しています。〆切は2月20日。
「信州安保法制違憲訴訟の会」で検索してみてください。
・・・・・・・・・・・・
1952年生まれの私は、戦争の悲惨さを直接知らずに育ちました。高校生の時にベトナム戦争を知り、同じ地球の上で、たくさんの人々の命が奪われ傷ついていることを、映画や報道、書籍を通じて知りました。体験しなくても、感じ考えることはできるのです。以来、なぜこのような理不尽なことが起こるのだろうと、50年近く、ずっと考え続けています。
ベトナム戦争から始まって、日本が参戦した太平洋戦争や第2次世界大戦、最近の2001年アフガン攻撃、2003年イラク戦争まで、知れば知るほど、考えれば考えるほど、戦争は、人を殺し、築き上げてきた暮らしを破壊する、あってはならないものだと思います。すべての人は、命を脅かされることなく、平和の中で育ち、学び、仕事をし、子どもを育て、そして死んでいく権利を有します。国家による戦争でも、集団による武力攻撃でも、人を殺してはならないし、人は殺されてはならない。紛争の解決は、人類の英知を結集して、話し合いや外交で解決していくのが、700万年の歴史を持つ人類の進化ではないでしょうか。
私は、「戦争放棄」を掲げた憲法を持つこの国に生まれたことを誇りに思っていました。それが、人類の理想のモデルともいうべき平和憲法を踏みにじり、新安保法制が制定されたことによって、私の誇りは崩れ落ちてしまいました。なぜ、平和のうちに生きる権利を侵し、幾多の戦争から学んだ「戦争放棄」を手放した法律ができてしまったのでしょうか。
高校生の私は、当時、両親と口論しました。今ベトナムで多くの人が殺されているのに、どうしておかしいと声を上げないのかと。両親の答えはこうでした。「自分たちの生活の方が大事で、それどころではない。」そこから、私は学びました。自分の生活が大事なのはわかる。けれど、殺される人だって、生活や命を大事にしていたことは想像を広げればわかるのに自分の生活から目を広げないのは、本当に生きることを真剣に考えない態度であると。今の私だったら、こう考えます。「私」が平和のうちに生きたいのであれば、すべての人が平和のうちに生きることを認めるべきであると。
新安保法制は、他国が人を殺すことに後方支援し、武器を持って駆けつけ警護をするものです。人の命を奪うことに協力するものです。
2015年9月19日に新安保法制が成立してから、毎日、私の胸はかきむしられるような思いで、いっぱいです。
この法律が憲法違反であるという法の裁きを心から願っています。
あこがれの信州暮らし その155(2017年2月)
言霊(ことだま)
稲角尚子
連日、トランプ米大統領の発言がトップニュースで報じられています。難民や中東・アフリカ7カ国の国民の入国を一時禁止した大統領令をめぐる発言です。あぁ、こういったニュースをアメリカの子どもたちは、どんな風に聞いているんだろう、と胸がつぶれるような思いです。周囲の大人たちの微妙な空気を察知して、「テロは恐いから仕方がないよ」とか、あるいは「差別はよくない!」とか、身近な大人の言葉そのままに言ったりもするんだろうか。
「言葉」ってコワイとつくづく思います。「言葉」によって慰められたり、勇気づけられることもあれば、「言葉」によって傷つけられたり、憎しみが生まれることもある。子どもは、大人よりずっと繊細に感じとっています。だからこそ、「親」も「教師」も・・・「大統領」も、よく考えて発言しなくてはなりません。
私は子育て中に、親である自分たちのすべてが問われていると感じることが多々ありました。親である自分たちがどんなふうに子どもに語りかけたか、子どもがそれをどんなふうに受け取っているかを知るたびに、身の引き締まる思いがしたものです。
たとえば、保育園でも小学校でも決して先生の言うとおりには行動しなかった(教師から見ると、極めて扱いにくい子どもだった)上の息子。私たち親は保育士さんや先生方に頭を下げながら、息子には「どうしたかった
ん?」と尋ね、「そうか、気持ちはわかる。でも、そういう時はこんなふうにやったらどう?」と提案してきました。そして「アンタのいいところは、『自分がこうしようと思ったら、あきらめずに最後までやり遂げること』やね」と言い続けました。こんなタイプの子に「強情だ」「協調性がない」「とにかく言うことを聞け」と言っても通用しないだろうと感じたからです。本当にそう言うしかなかった。
ある日、息子が学校で書いた「ぼくのいいところ」という作文を持ち帰りました。そこには「ぼくのいいところは、自分がこうしようと思ったことはねばり強くやれることです」と書いてありました。いやもう、驚きましたね。親が繰り返し語ったことが、いかに子どもに影響を与えることか!
良い言葉は良いことを引き寄せ、不吉な言葉は凶事を起こすという「言霊」をそっくり信じるわけではないけれど、どういう「言葉」を発するかで言う方も言われる方も状況は大きく変わるような気はします。子どもの良いところを褒め続けていたら「豚も木に登る」し、欠点を指摘して叱り続けてもなかなか改善できない。時に、際限なく愚痴を言いたくなる「介護」であっても、身体的・時間的大変さや精神的苦痛を言い合うことで少し楽になることも確かにあるけれど、かえってウンザリ感や疲労感が増すこともある。
亡き母は、末期ガンと言われてからも一人暮らしの高齢者に食事を作って届けるボランティアを続けていました。「無理しないで」と言う私に、母は「役に立つことがしたいったい。それが私の喜びやけん」と言いました。末期ガンでも普通の生活を続けた母。・・・自分の「言葉」が母を支えたのかもしれない。
4年前の年末に郵便局でミリオンスター(カランコエの一品種)の小さな鉢(直径6cm)をもらいました。毎年ぐんぐん生長し、今年はなんと高さ40cm! 毎冬「よく咲くよねぇ!」と褒めて話しているからでしょうか、ちょうど今、食卓テーブルの上で満開です。植物だって「言葉」がわかるんだ!
子どもたちに、人種や宗教を超えて信頼しあえるってことを伝えたい。
健全な非常識
佐々木優子
先日の新聞記事で、「年賀状離れが進んでいる」というのを目にして、私は正直ホッとしました。実は、今回は一枚も書かなかったのです。ちょっと前なら非常識と言われました。思い起こせば、小学生の時分、クラスメイトに出したのが始まりだったかしら。その頃が一番楽しく書いていましたね。一枚一枚手書きで干支を描いたり、芋を削ってハンコを作ったり、そういう作業が苦にならなかった。そして、届く年賀状を見るのも楽しみでした。いつの頃からか、面倒くさくなってきました。大掃除もしなくなりました。そして、実家での「おせち作り」の手伝いもなくなりました。足腰が弱ってきた母はとうとう作るのを止めたのです。何もせずに過ごせる休み、これほど贅沢な事はありません。非常識と言われようと面倒な事はやらないことにする。この解放感を味わってしまうと、「手放す」ことが怖くなくなります。
私の母は長年、小学校の教師をしていました。夕方遅くに帰ってきて家事をこなし、夜遅くまでテストの採点などをしていました。その様子を見ていた私は、幼少の頃から、邪魔をしないように、なるべく話しかけないようにと気をつかっていたものです。休日だからと言って休むことはなく、裁縫や手料理を振る舞い、常に忙しく動いていた母。
そんな母が八十歳を超えたころからめっきりと弱くなりました。耳が遠くなり話が全くかみ合わないことも頻繁に起こります。そんな母が近頃、昔の話をすることが多くなってきました。先日は、小学三年になる私の娘を話し相手にしていました。母が教師になりたての頃、仲よくなった野良犬の話。毎朝出勤する時間になると、どこからともなくやってきては駅まで一緒に歩いてくれたそうです。でもある時、その犬が車に引かれて死んでしまったらしい。飼い犬ではないけれど、かわいそうになって、引き取りに行って、庭に埋めたそうです。この話、どこまで真実なのでしょうか。だって母は動物が苦手です。野良犬と仲よくなったなんて、とても信じられません。やっぱりボケてしまったのだろうか、と不安になる反面、娘とのやりとりは微笑ましく、見ていると安心感を抱きます。松本に母子避難をしていた間、ふたりの距離は大きく離れてしまいました。しかし、こうして茨城に戻って、その時間を取り戻しているようにも見えます。放射能汚染は嫌だけど、これはこれで良かったと思える事柄です。老いていく母をこうして近くで感じられること、私にとっては救いです。がむしゃらに働いてきた母に、やっとゆっくりできる時間が訪れたのです。
いわゆる、戦後の高度経済成長期を支えてきたのが私の親世代。家庭を犠牲にして働いてきた人たちです。彼らの働きが日本を経済大国にしたのです。しかし、無理は禁物、その歪みが、家庭内暴力や引きこもりなどの家庭崩壊を招いたとも言われています。そして私の世代は「アダルトチルドレン」。体は大人でも心は未熟。そして、今もなお「不幸な家庭」の連鎖を断ち切ることは難しいようです。こうした関連付けを否定する学者は多くいるようですが、私自身、育った環境が幸せだったと言い切ることができません。そして、「不幸な家庭」で育った事を認める友人たちも少なからず私のまわりにはいるのです。
すぐに怒鳴る怒りっぽい父、そして常に忙しく動き回っている母、無関心を装う兄。家族四人で囲む食卓に会話はなく、テレビを見ながら黙々と食べるだけでした。私は、小学生の頃から、特に父と話すことを避けるようになりました。父は些細な事で怒鳴るので、まともな話をすることはできません。私は「この人は頭のおかしい人だ」と決めつけることで自分を守ることにしたのです。実際、父が亡くなるまで続いたのです。ですから、父の事は何も知りませんでした。
2011年の震災の年の暮れ、父の葬式の後、兄から聞いた話に、私は驚愕しました。「親父は子供の時に寂しい思いをしたからなぁ」と。父が幼い時に母親を亡くしていたこと。継母とは仲よくなかったことなど。そして葬式に来ていた叔父が、父とは異母兄弟だったことなど。私は初耳だったのです。そして、兄が、そういう事情を熟知していたことにも本当に驚きました。だって、兄と父が話している所を私は見たことがないのです。これは、ミステリーです。父が死んでから、自分の家族に対して、私は初めて興味を覚えたのです。しかし、今となっては遅すぎます。できれば、私の子供時代に、父の話を家族で共有できたなら、私は違っていたのかもしれない。そして、「自分は不幸な家に育った」と言った友人も、私の知らない「不幸な家」で育った人たちも、ほんの小さな試みを起こすことで「幸せな家」になったのかもしれないのです。小さな不幸の集まりは悲劇を生みます。その反対に、小さな幸せの集まりは大きな幸福につながると私は考えます。連鎖を断ち切るために、非常識と言われようと、私は楽になりたい。まずはそこから始めようと思います。
情けは人のためならず
フジサワ ユウイチロウ
まだ生きている。人間そう簡単には死なないのかもしれない。死んだ方がましなくらいの痛みだった。暮れに波田の松本市立病院で色々検査してもらった。血液検査・胃カメラ・大腸カメラ・超音波検査。内臓系には異常はなかった。胆石はまだたくさんあったが、腎臓結石や肝脂肪はなくなっていた。骨にもほとんど異常はないと言われた。ただ、血糖だけは異常に高かった。痛み止めの薬を貰って飲み始めた。そのためか少しずつ痛みが少なくなっている。副作用は必ずあるのでなるべく早く薬はやめたいが痛みが酷いうちはどうしようもない。血糖値の方が危ない状況だと言われた。糖尿病と神経痛の両方を心配しなくてはならない。
新年になって気功もやってくれるという東京の整形外科に行った。そこでは、やはり椎間板ヘルニアによる座骨神経痛だと診断された。ただ、皮膚表面の神経痛というのは珍しい症状だという。ブロック注射と気功をやってもらった。劇的に治るというわけにはいかないが、痛みが少なくなっている。ヘルニアも時間はかかるが治る病気だとも言われている。
糖尿病の方は市の補助での診察でもかなり高い血糖値であることがわかった。また、心電図にも少し異常があるらしい。合併症から失明することもあると脅されて眼底検査も受けたが異常はなかった。検査も嫌いなので受けてこなかったが、糖尿病以外はそれほど悪い所がないことがわかって少しほっとしている。
糖質制限食というのが糖尿病にはいいらしいとネットで知った。甘い物や炭水化物は極力さけて、肉や魚・チーズや卵などを主に食べる。葉物野菜はいいが根菜類・芋類は糖質がけっこう多いらしい。糖質だけが血糖値を急激にあげる。脂質・タンパク質はあまり血糖値とは関係ないようだ。一時的とは言え、今までの玄米菜食に近い食生活から180度違う肉食生活に近づいている。何百万年という人類の歴史からすると人間は採集狩猟で肉食だったので、体の基本構造は肉食向きにできているということらしい。カロリーは気にする必要はないというが肉などそんなに大量に食べられるものではない。幸い安全なカモ肉がたくさんあるので助かっている。神経痛は暖かいところに行けば治りやすいと何か所かで言われたので、少し保養に南方へ行く予定である。
毎年観光で海外へ行ったが今年は保養だ。預金も尽きたし、もし神経痛が治らなかったら百姓もできなくなる。生活保護の受給も考えつつある。なんとも悲痛な旅行である。少しでも円高になってもらいたいものだ。生活保護という言葉はもう止めてほしい。文化的基本生活権とでも変えて欲しい。誰でも収入が足りなければ受給できる制度にすべきだろう。デフレが長引いているが、物やサービスが溢れているのに所得や購買力が減っているから売れないのがデフレだ。この状況で増税や補助金カットが進める政府は狂っているとしか言えない。所得を補償すれば景気循環は必ず回復するだろう。情けは人のためならず、という良い格言が日本にはあるのになあ。
この地球の上で(2017・お正月)
Yakko
お正月、ただ日付が一日変わるだけなのに、今年は少し心待ちにしていた。一番上の娘が2年ぶりに帰ってくることや、20年ぶりに鴻巣市にある連れ合いのkenちゃんのお姉さんの家を訪ね、九州から引き取られているお母さんに会う予定が立てられていたから。離れている家族に会うのは嬉しい。
おせちは、何十年も作っていると定番のおせちが決まってくる。毎年作るのは栗きんとん、田作り、数の子、黒豆煮、紅白なます、花れんこんの甘酢漬け、筑前煮、松前漬け。それにおやおやで買った紅白かまぼこ、伊達巻、昆布巻を加える。ここ数年はお頭付き海老の塩焼きやニシンの糀漬けも作っている。一度作って止めたのは錦卵。甘いものだらけのおせちにもう一品増やす必要性はないだろうと判断して。今年は焼き豚も作ってみた。
私の生家では、大晦日を「お年取り」として元旦よりご馳走が並んだ。用意したおせちを並べ、茶わん蒸しとブリ1匹を親戚と半身ずつ分けて、お刺身と塩焼きにしたもの、それと、とろろご飯を年の数だけお代わりしろと言われたものだ。元旦の朝は。お酒をあまり飲まない家族だったので、お屠蘇はなしで、お茶。そして開運堂のお菓子の詰め合わせから好きなお菓子を選ばせてもらった。御嶽さま(山岳信仰の御嶽教)には、まだ動いている伊勢海老がお供えされ、数日後には煮て食べるのだが、いかんせん、お線香のにおいが染みついていて、わくわくして箸を持った私たち子どもは、いつも期待を裏切られるのだった。
お餅は毎年、うちの蒸籠、お釜、かまど一式を貸してある友人が臼でついたものを届けてくれる。力のありそうな友人が臼でついたお餅は、形は悪いけれど本当においしい。今年は真ん中の娘が、大鹿村で田植えから稲刈りまで手伝ったもち米が届いたので、キビを混ぜて餅つき機で作ってみた。いつもは、餅つき機で黒豆と青のりを入れたうるち米入りのお餅を作っていたのだけれど、これだと、せっかくの娘のもち米の味がわからないかもしれないと思ったので。
ついでに生家のことも書くと、年末にはお餅屋さんから大量のお餅が届くとそれは、もうすぐお正月が来るという意味だと子ども頃の私は嬉しかった。大きな四角い、のした白餅、ナマコ型の青のり入りの豆餅、そしてたくさんの丸餅。よく、この丸餅を大小組み合わせてお供え餅にする仕事を言いつかった。生家には、御嶽さまの他に、荒神様、水神様、大黒様、恵比寿様、お便所の神さま、天神様や四柱神社などのいろんな神様を祀ったもの、などのたくさん神棚があったので、お供え餅もたくさん必要だったのである。お餅は、おなかがすいた時に食べ放題だったのも嬉しかったなぁ。
子どもたちが巣立ってから母は、餅つき機で少しばかりのお餅をついていた。私は呼び出されて、きれいなお供え餅の作り方を伝授された。丸いお餅を下の方に手をあて、両手で回しながら、だんだんと下の方にだれてこないように、上に持ち上げるように丸く形を整えること。お供え餅づくりには自信あり。
あっという間にお正月休みは終わって、今年が始動している。2017年は、衆議院選があることだろう。憲法を改正ではなく改悪しようとしている勢力に、国会で2/3以上を占めさせない大事な選挙になる。また忙しくなりそうだ。
あこがれの信州暮らし その154(2017年1月)
「住み慣れた街で生きて逝く」
雪のないお正月でした。近いうちにドカンと来るんじゃないかと恐れていたら、やっぱり・・・ドカン!
私たち夫婦の年齢から言うと当然のことなのでしょうが、数年前から喪中欠礼のハガキがぐっと増えました。親も恩師も、今までお世話になった方々がことごとく、そういう年齢なんですよね。そうして、「次」は自分たちの番なのでしょう。10年ほど前まではあまり深く考えもしなかった「人間の死亡率は100%」という厳然とした事実を突きつけられている気がします。
そうして、同年代の友人たちからの年賀状は介護の話題満載。「夫婦それぞれの親のところ(岩手と大分)を行ったり来たり」で大変そうな東京の友人。「足が不自由でわがままな母に振り回される毎日。さすがに疲れた」と言う、その彼女の方が心配な友人。「認知の母のことで、心がヘトヘト状態」と書いていた友人は大丈夫やろか。「(両親の介護を巡って)きょうだい関係がネックになってきた」という後輩もいるし、「『家に帰る』と言って出かけて道がわからなくなった母を近所の人、通りがかりの人が見守り、(迎えに行く)私を一緒に待っていて下さっている。本当に助けられている」という先輩も。・・・そして、親の介護のために夫婦の別居が長期に及んでいる友人は、ついに離婚訴訟に発展してしまった。
介護だって子育てだって、夫婦の意思疎通と協力が不可欠です。介護をきっかけに離婚が取り沙汰されるってことは、たとえ介護の問題がなくても、もともとの夫婦関係に何か問題があったってことなのかもしれません。それでも、・・・と思うんですよね。その友人は、月に1~2回の介護帰省を始めて14年。毎週末になって9年。別居して親の元に常駐するようになって6年・・・いやぁ!さすがに長すぎないか? どうして、親の方が移動してくれなかったのか? きょうだいとは分担できなかったのか?
親の方が移動する・・・実はこれが難しい。
高齢になった親のほとんどは「住み慣れた街で生きて逝く」ことを望みます。もちろん、そうできたら一番いい。血縁だけでなく、地縁やサークル縁、志縁などさまざまなつながりがある馴染みの場所で最期まで暮らせたら、それが一番いい。私だってそう思います。でも、その地に暮らしていない、遠方の子などの支援者側のことを考えたら、人は頑なに自分の希望だけに固執できるものだろうか? その友人の親だって、わが子の幸せを何よりも願っていたことでしょう。ところが、(支援する)子に頼っているうちに、どうすべきかを判断できない状態になってしまった。
実は「住み慣れた街で生きて逝く」は、末期癌患者向けの狭義のホスピスケアに留まらず、すべての患者とその家族を住み慣れた地域で支えていこうというコミュニティケアを実践しておられる「ケアタウン小平」のケアチームのキャッチフレーズとも言うべき言葉です。私たち夫婦も深く賛同しているつもり。
それなのに今、その私たちが三重県に住む一人暮らしの義母(83才 自立)に、住み慣れた土地を離れ、(親族を遠距離介護する)私たちの力になってほしい、と何度も頼んでいます。「ずっとこのまま馴染みの地で暮らしたい」と望んでいる義母に、「もし今後、遠距離介護が2ヶ所になると私たち二人の生活が成り立たない。助けてほしい」と。
無茶なことを言っているのはわかっています。60年も住んでいる家を離れるのがどれ程つらいかは百も承知です。
あぁ!歩み寄る着地点はどこにあるでしょうか。
曲がり角を見られるか
フジサワ ユウイチロウ
ほんの少し痛みが減ったが、まだ24時間続いている。3カ月続いた痛みのため体重が10キロ減った。痛みのある病気は体重が減るらしい。それに伴って体力と気力が落ちた。少し前は稲刈りをする気力があったが、今は何もする気がしない。ほとんど人に丸投げ状態だ。幸いボランティアで助けに来てくれる若者がいる。雨や寒い日は起きているのもつらいからまさに神経痛の症状だ。
週に一度出張整体をしてもらう。時々鍼灸を近所の治療院でやってもらう。琵琶温灸のセットも購入してたまにやる。最近は機械で診察や治療までやってくれるというので、診てもらった。すると胃まで悪くなっているようだ。食べてすぐ寝るので胃液が胃の上部を荒らしているのかもしれない。胃がもたれる感じがする。食欲もあまりない。頸椎も悪いらしい。姿勢がよくないようだ。寝ながらパソコンやテレビを見ているせいかもしれない。心の状態や放射能の状態まで機械にでるが、あまり意味はわからなかった。相変わらず御淨霊と称して手かざしによく来てくれるが、気持ちはありがたいがほとんど改善していない。
もう薬や注射が嫌いとか言っていられなくなってきた。まずは痛みをなんとか減らさないと体中がおかしくなってしまいそうである。ペインクリニックという痛み専門の診療をしてくれる病院があるようなので行ってみようと思う。寝てばかりいてもよくならないので、午後は近くの温泉で過ごそうと思っている。ジャグジーを背中に当てると自律神経の周りの筋肉が柔らかになって内臓にいいらしい。ただ、新しい温泉だせいか塩素がきつくて5分の入っていると頭がクラクラして立てなくなるので、少し入っては露天風呂に移動する。サウナには塩があり患部に擦り込む。神経痛には効くと聞いた。裸でいられるから楽である。ズボンはもちろんパンツの裾が当たるだけでピリピリと痛む。家でもほとんど下半身はパンツ一枚でストーブの前にいる。
市の補助が出る特定健診も受けた。いままで健診など受けたことがなかったが、今一原因がわからないので受けてみた。尿から糖が出た。食欲がないのであまり食べていないのに出るとはどういう事だろう。やはり糖尿病も影響しているのかもしれない。血液検査の結果待ちだ。
さすがに体重が10キロも減ると気が弱くなる。初めて死を意識した。身辺を多少整理しておきたいものだが、なかなかその気力も出てこない。世界は今大きな曲がり角にきているから是非見たいものだが体が許してくれるのだろうか。
トランプの出現で自由貿易やグローバリズムの時代が終わろうとしている。保護主義と自給経済でいいではないか。自国の産業を関税などで守るのは当然だと思う。何が問題なのだろう。保護主義が第二次大戦を招いたというのは本当だろうか。資源争奪戦というのならまだわかるが、現在資源はどこからでも買うことができる。足りないものは輸入すればいい。TPPはなくなるだろう。これでメガバンクの倒産が続けば、経済主権と貨幣発行権による自給経済は国民の重要な権利となるだろう。
気がついたら、すっかり○○です。
佐々木優子
電力の自由化が進んでいる昨今、オヤッという事がありました。ひとつは、この辺りを牛耳っている住宅メーカーが電力を配給し始めているのです。その会社が管理している住宅を賃貸するときには、その住宅会社に電気料金を支払うようです。条件付きの契約です。そっちは自由になってもこっちはならない。非常に不透明なシステムです。うちのような賃貸暮らしには電気会社を選ぶことはまだできません。できるのは不透明なシステムを携わっている住宅を賃貸しないことぐらいです。
そして、もうひとつは新電力会社から、自社をアピールする勧誘の電話がありました。会社名にエコの文字が入っているのですが、名前だけで安易に信用してはいけません。「どうしてうちの番号を知っているの?」「お宅の事務所はどこにあるの?」「あなた自身、どこにかけているのかわかっているの?」と、素朴な疑問をなげかけただけで「失礼しました」と切られてしまいました。呆然とした私ですが、はた、と気がついたことがあります。それは、自分が物事に動じない、立派なおばさんに成長していることです。
さて、私が今住んでいる茨城県は、非常に揺れが多い所です。震度4ぐらいでは驚かなくなりました。しかし、先月のは、本当にびっくりしました。それは寝起きの早朝で、トイレで用をたしている最中(大便)で、しかも、台所では、コンロにのっている3つの鍋に火をかけていました。「あ、これは大変だ」と本当に思いました。この時の実際の震度は「4」。「へぇ、そんなものだったのかぁ」。私の中では「5弱」ぐらい。実際に体に感じる揺れというものは人それぞれ違うのかもしれませんね。
松本には4年近く暮らしたのですが、地震がとても少ない土地だと感じました。だからでしょうか、ごくたまに起きる揺れはドキリ、としました。そして、恐い。それは揺れ方がこちらとは違うからです。松本のは、地面を下から突き上げる感じ。どすん、とね。それは「縦揺れ」と表現したらいいのかな。それは今まで経験したことのない揺れ方でした。こちらは、横に揺れることがほとんどで、わりと家屋の崩壊も少ない、とききます。
それから松本では「地鳴り」が聞こえないですね。地震の直前にゴーッとなる、あれですよ。いきなりドスン、とくるから本当に驚きます。私は耳が良い方で、地鳴りに気がつくのが早いです。揺れの前に「あ、地震だよ」と家族に伝えることもできます。話はそれますが、うちの車のエンジン音と他者のそれとを聞き分けられます。家の窓(ペアガラス)を閉めていても聞こえます。「あ、帰って来たな」と、わかります。
茨城で何十年と暮らしているせいか、地鳴りの大きさと長さで、おおよその揺れを予測できます。3.11の時は凄い地鳴りでした。私はその時、図書館の中にいたのですが、娘の手を引っぱって、一目散に屋外に飛び出してしまいましたよ。その時の光景を今でも思い出すことができます。さすがに多くの人たちが地鳴りに気がついているようでしたが、私のように逃げる人はなかなかいないんですよ。みなさん余裕で「あれ、この音はなんだろう?」みたいに天井を見上げているんですよね。肝っ玉がすわっているというか。私なんて、なんだか獣みたい。ほら、大災害の前の獣の大移動、あんな感じですかね。
「もう、覚悟を決めなさいよ」と、私を諭す友人もいます。福島原発の事故で日本中汚染されたのだからどこへ行っても同じよ、とか、日本中原発だらけだし、ジタバタしても始まらない、とね。それに対し私は「往生際が悪くて、すみません」としか言えません。
3.11以降、私はスイッチが入りっぱなしです。それは、やはり原発事故が再び起きることを憂慮し続けている、ということです。頭の片隅に常にあります。私が現在暮らしている所は福島原発から200km以内です。もっと近くには東海第二もあります。また津波を被ったら、と思うと、いてもたってもいられません。今回の地震で、何が恐ろしかったって、ラジオから流れる津波警報ですよ。あれを耳にしたら、もう荷物をまとめるしかないです。
しかし、一歩外へ出ると、普段と何も変わらない様子なんですね。朝の太陽の清々しい日差しの中を、見覚えのある会社員や学生が急ぎ足で歩いている。「津波警報が出ていますよ!万が一、原発に津波が被ったら一大事ですよ!」と私は心のなかで叫んでいました。果たして、どっちが現実なのだろうか?私から見た世界と、彼らから見た世界と。それはまるでSF小説の中に生きているような朝の出来事でした。
私も以前はああだったのだろうな。良し悪しは決められない。もう、自分の直感を信じるしかないですよ。頭のおかしい女と思われてもいい、その時が来たなら、なりふり構わず逃げてやろう。
気がついたら年の瀬です。皆様、どうぞよいお年をお迎えください。
あこがれの信州暮らし その153(2016年11月)
きれいな言葉
稲角尚子
当初は「そんな発言してるってホントなの?」と耳を疑った大統領候補が、次期アメリカ大統領に選出されてしまいました。不正のない(たぶん・・)選挙でちゃんと選ばれた末に。ラジオ番組も新聞記事も「信じられない」「予想もしなかった」というコメント満載でしたが、私はずっとイヤな予感がしていました。だって「接戦」と報じられていたってことは、すでにかなりの人が支持していたってことですもんね。だから、考え込んでしまいます。暴言満載の彼の発言に喝采を送る人が確かにいるという事実の意味を。
考えてみれば、何の恥じらいもなく、公然と侮蔑的な言葉を使い、罵詈雑言を言いたい放題の政治家が支持されるのって、アメリカだけではありません。アノ石原慎太郎元東京都知事だって圧倒的な得票率で当選していましたよね。やっぱり、ちゃぁんといるんですよね、支持する人たちが。それも、ものすごくたくさんの数の人たち。これが多数決を旨とする「民主主義」のひとつの実態なんだ、と暗然とした気分になります。
いや、政治家の派手な発言だと目立つだけで、もはや、私たちの日常の中にネガティブな言葉はあふれているのかもしれません。ネット上の個人のブログですら、簡単に「炎上」するんだそうです。公人の、公的な場での発言に対して批判し、抗議することは大事ですが、巷にあふれているのは、少し目立つ人たちへの「誹謗」「中傷」の類。よく言われるのは「その前提には社会経済の行き詰まりや社会の閉塞感、それに伴う経済格差の拡大というのがあって、そういったものに対するやり場のない怒りがある」ということ。でも、本当にそれだけだろうか?
日常の中には「怒り」もあれば「哀しみ」もあるし、「不安」もあれば「憤り」もある。そんな時に、ひたすら耳を傾けてくれる人がたった一人でもいたら、人は外に向かって攻撃的な言葉を投げつけるだろうか。怒りは怒りとして、その怒りの意味やその根底に横たわる問題の本質を考えるには、「誰かに話す」ことが大事なのに、「その誰かが一人もいない」という人がこれまでになく増えているのではないか?
仕事だって、子育てだって、介護だって、思い通りにはいかないことばかりです。献身的な努力が報われるとは限らないし・・・。そんな時に「親身になって」聞いてくれる誰かがいることで、人は癒されるし、そのあとも何とかやっていける。「不運な自分に比べ、あの人は・・・」と他人を妬んだり、弱者を排斥したりする今の現象は、やっぱり普段の自分を取り巻く人間関係の希薄さが影響するんじゃないのかなぁ。
メディアには親しみやすさをウリにした、ぞんざいで荒っぽい言葉があふれているような気がします。そんな時代だからこそ、普段から丁寧で優しい言葉を使いたい。紡ぎ出す言葉と行動はきっとつながっていると思うから。
数日前の朝、庭の隅を歩いていたアライグマを見つけました。彼はサササッとすぐ裏の石垣の中に潜り込んで隠れました。こんな近くに巣穴があったなんて! その時、思わず発した私の言葉は「あらっ! アンタ何してるねん!」。これがいけませんね。「あらっ! いつからそんなところにいらしたの?」・・・・・やっぱ無理か?
この地球の上で(現実を直視して行動する)
Yakko
お気に入りの黒の礼服が着られなくなって買い替えたのは何年前のことだろうか。
私の町会の班は、ご高齢の方が多くて葬儀に出る機会が多いのだ。確実に体重が増えていることがわかるので、おそろしくて体重計に載らないでいた。つまり、見たくないものを見ようとしないようにしていた。それが、町会の健康づくり推進委員になって、委員が健康診断を受けないのはマズイと、8月に受けてきた。
久しぶりに示された体重とBMI値(体重÷身長÷身長)を目の前に置かれ、測るだけダイエットの用紙を渡されて観念した。以来、毎朝体重計に載り、グラフを書きつけている。数字の上下はあるものの、不思議なことに全体として右下がりのグラフが書き込まれていく。食べる時にグラフが目に浮かび、ちょっと量を控えようと自制が働くからだ。夕食時の炭水化物を控えるといいとわかってきた。昼間は脳が糖を使い、寝ている間は脳が休み内臓が脂質を使って働いているらしいので、理にかなっているかも。
もともとご飯類が大好きで、若い時はお餅を5個食べた、6個食べたと自慢していたし、しょっぱい鮭や干だらをおかずに、おかわりしていた。我慢しすぎるのは良くないので、時たまは朝かお昼に、おかわりすることを自分に許している。このままグラフが右下がりを続けると、またお気に入りの黒のワンピースを着ることができるかもと楽しみにしている、でも、いつまでたってもおなか周りが小さくなった気がしない。(体の他の部分の脂肪から落ちていって、おなかの脂肪が落ちるのは最後らしい。トホホホ)
現実をおそれず直視して解決のために行動すること。
こと、私の体重だったら私ひとりの問題だが、リニアや原発となると私だけではなく子どもや孫の世代にまで問題を引き継がせてしまう。
11月1日、2027年品川―名古屋間の開通をめざして大鹿村でリニア中央新幹線南アルプス工区の起工式が行われた。そもそも時速500キロで移動する必要があるかどうか疑問だけれど、それ以上に南アルプスに穴をあけることの危険性を十分直視しているのだろうか。
地震活動期に入っていると言われている日本列島で、東海地震などの地震が起きた時、断層がたくさんある南アルプスは大丈夫だろうか。運転手のいないリニアで、乗客1000人は5つしかない脱出口から坂道を何キロも歩いて逃げなくてはいけないらしい。水ガメといわれている南アルプスの水脈をトンネルが断ち切ることで、人々の暮らしや生態系に影響が出るだろう。大井川では最大毎秒2トン(毎分だと120トン!)の水が失われるといわれている。東京ドーム46杯分といわれるトンネル掘削で出る残土を運び出すために、大鹿村では一日最大1700台のトラックが行き交う。静かな山あいの村の暮らしは壊され、その残土の置き場も決まっていない。11月11日には、国が財政投融資でリニアのためにJR東海に3兆円が貸し出す法律ができた。人口減少が進むこの国で、採算がとれるのだろうか。私たちの税金は果たして返してもらえるのだろうか。電磁波の健康への影響は大丈夫だろうか。
一度できあがってしまえば、けして元には戻せないのは原発も同じだ。福島第一原発では、いまだ溶け落ちた燃料を回収できずに、放射能の汚染水が垂れ流されている。放射能が子や孫の代に引き継がれていくばかりではなく、コスト(除染費用、賠償費用、廃炉費用)も引き継がれていく。NHKスペシャル廃炉取材班の試算によると、13,3兆円のコストの7割が原発を持っている電力会社(つまり沖縄電力以外のすべて)の電気料金への上乗せや税金として国民が負担させられるのだという。廃炉まで40年。しかし、その難しさが工程を遅らせ延長されていき、さらにコストが膨らむかもしれない。原発を容認してきた国民につけを負担してもらうという政府関係者の発言まであった。(詳しくはNHKオンデマンドで「廃炉への道2016調査報告 膨らむコスト~誰がどう負担していくか~」をご覧ください)
リニアや原発も政府が進めるのは、経済成長戦略として海外に売りたいためらしい。経済成長はもういい。今あるものを分かち合って、みんなで心豊かに暮らす社会にシフトしていきたい。そのために、まず現実を直視して行動したい。
社会の病
藤沢雄一郎
もう丸二か月、ほとんど寝たきり状態だ。稲刈りは大勢に助けてもらってなんとか終わった。体調の良いときは稲を刈った。コンバインに座っている時はそれほど感じないが、長時間やると後が大変になる。サポーターや尚子さんから貰ったストッキングをしてからズボンを穿く。擦れるだけでヒリヒリ痛むのでストッキングをすると多少和らぐが、サイズが小さいせいか時間がたつときつくなる。黒の網目模様のやつが一番ソフトな肌触りでいいが、ちょっと色っぽすぎる。この年でまさかストッキングを穿くとは思わなかった。
色んな治療を試してみたが、あまり痛みは変わらない。かなり時間がかかりそうだ。肝臓を病んだ人がよく皮膚の神経痛に悩まされるという。私もどこの治療院に行っても肝臓が悪いと言われることが多い。軽い脂肪肝でもある。酒浸りの長い生活が祟った。母の見つけた新聞記事にも肝臓の難病にかかり私と同じような皮膚の痛みが進行する話が載っていた。生体肝移植で進行は止まったという。私の場合は進行しているという訳ではないが、まだ改善しているとは言えない。痛みも減っている感じはしない。夜中に痛くて起きてしまうのも同じだが、肩を回したりストレッチすると少し良くなる。
自然栽培や自然農は岡田茂吉が提唱して世界救世教などが広げてきた。農法と一緒に手かざしで病気を治すことでも有名だ。その関係でよく松本から人が来てくれ、一回10分程度手かざしをしてくれる。父の帯状疱疹や母の嘔吐などはかなり早く医者にも行かずに治った。私の場合はまだほとんど効果は現れていない。時間がかかるそうだ。注射をたくさん打った人は皮膚の神経痛によくなると言われた。病気のほとんどは薬害でその毒素を出すのが痛みや病という事らしい。糖尿病で昔毎日インシュリンの注射を自分で打っていたので注射歴は長い。インシュリンの説明書を読んだら遺伝子組み換えと書いてあったのを覚えている。目薬一滴の毒素を排泄するのにバケツ一杯の排尿が必要で、注射一本の毒素なら一風呂分の排尿が必要だという。人間の体と大地が化学物質や堆肥で汚染されているから病気になるという理論が基本だ。漢方薬も本来食べ物ではないので良くないという。堆肥も自然にはない人為的なものだ。手かざしで何故父や母が治ったのかはわからない。薬を辞めたのが一番良かったのかもしれない。人間の持つ自然治癒力を引き出すのかもしれない。
ただ、医療だけでなく他の民間療法なども否定する原理主義的なところは嫌いである。また、岡田茂吉の思いとは反対に戦後は石油文明で世界中に化学物質汚染が広がってしまった。経済成長がなければ存在できない銀行資本主義がそれを強力に推進してきたという社会システムの問題にはほとんど関心がない。社会の病が根本にあるから人間も農地も病んでいると言えるのではなかろうか。要するにマネーの問題が根源にある。国家の一番の役割は安定した通貨秩序を作ることで法律はその次だ。公益事業である通貨発行を民間企業の銀行とその業界団体・日銀に任せてはいけない。
ここだけの話ですが・・・
佐々木優子
「素に戻っちゃたな・・・」素顔・素足・素手・・・の素。そして、セシウム、ストロンチウム、ウランなどの元素の素。放射能汚染は元素だから厄介です。見えない、臭わない、そして、くっつくから。
そういえば、素(もと)ちゃんと言う名の保育士さんがいました。彼女曰く、その名は他の誰とも重なることがないそうです。「それは、すばらしい!」ちなみに、うちの娘の名前は夫が付けたのだが、そして決して安易につけたわけではないのだが、いたる所で重なります。出産した病院の受付で同じ名前が呼ばれて以来ずっと、です。ですから常にササキ○○ちゃん、と呼ばれています。とほほ…。
前述した素ちゃんは、娘が幼少の頃通っていた園の保育士さん。無認可なのですが、そこには徹底した保育思想があり、それに共感した人が集まっていました。雨の日以外は外遊びが基本。子供たちを乗せた園バスが市内の公園へと連れ出します。異年齢の子供が30人くらいだったでしょうか。草花が芽吹き始めた所、水遊びができる所、木の実が豊富に落ちている所など季節感のある公園を渡り歩きます。緩い管理の中で子供が自由に遊べる園というのは意外に少ないものです。うちの娘は幼稚園に入る前の一時だけ、幼少という事で親同伴、私も一緒に通いました。震災を経て思うことは、原発事故前の土や木の実などの自然に、娘が触れることが出来た事は貴重なことです。
松本から茨城に戻り、体に急激な変化はありませんが、風邪をひきやすくなったことや、娘のアトピー性皮膚炎が再発したことは気がかりです。私の目がチクチクして痛いこと、体がやたらだるい事は、「年だから」とか「更年期障害だからよ」、などと言われて流されてしまうだけですが。
娘の症状は、汚染と何らかの関係があるのでは・・・、と気になりだしたらもう大変です。放射性物質の元素が土や木などに吸収されていくように、娘の体中に入っていくことをイメージしてはいけないのです。悪夢が甦ります。雨風を避けることや、埃を吸わないわけにはいかないのですから。今、この土地で暮らすためには、恐怖心はそっと脇に置いておくことです。でも、完全に忘れたりすることはできません。いつ、しっぺ返しを食らうかわかりませんし。「死の灰」とはよく言ったものです。目の前にそれがあることを頭の片隅にいつでも置いておく、それが大切です。
忘れずに、しかし恐怖心を煽らないという状態を続けることは非常に緊張を強いられることです。ですから自然と鈍感になることや忘却は、ある意味、私を守ってくれているのです。恐怖心の中で生きることはできません。そういうわけで、私はかなり震災前の状態に戻りました。くやしいことに「素に戻ったな」、と思うことがたびたびあります。先日は、草むらの中をザクザクと歩いてしまいました。一年前には出来なかったことです。久しぶりの土の感触は靴底を通してもその柔らかさが伝わり、そして湿った匂いが体にまとわりついて何とも言えない気分に陶酔しました。土を避けては生きていけない。その日を境に、娘が見ていない時にこっそりやっています。娘に対しては相変わらずで、放射能云々の小言や、給食の停止は継続中です。たまに思います、私は免罪符をこしらえているのかもしれないって。万一、娘に何かが起きた時、私はできるだけの事をやったのよ、ってね。
この土地では、こういう心の内を思いっきり話すことが出来ないのは非常に辛いことです。松本で母子避難生活をしていた時は本当に救われました。私と同じ思いの人と話すことができたからです。しかし、ここでは沈黙です。この何とも言えない閉塞感。息苦しさ。鬱々した毎日・・・。
そんな日々を送る私の前に現れたのが、フィリピンのドゥテルテ大統領。あの暴言の数々。すぐに非を認め謝罪するところがなんだか憎めないし。あっぱれです。もう目が離せません。大麻撲滅を強化するために、裁判にかけずに死刑にしたことや、愛人がいたことを公言することなど、風貌もまるでマフィアのボスみたい。しかし弱者には非常に優しいようです。そして、名言もあります。「そうですよ、玄関マットのように人を扱ってはいけませんよね。」国民の支持率が圧倒的ですから、本音で生きる彼こそが今の時代には必要なのかもしれないな、と感じます。
そして、裁判の公平性について、震災以降、私は首を傾げずにはいられません。それは原発事故や再稼働についての範囲内の事ですが。裁判をする、しないの前に、公平性を確かなものにしてほしいです。それは世界共通のこと。
願わくは、ドゥテルテ大統領、原発を稼働する、なんてことは絶対言わないで欲しいものです。
この地球の上で(チベット・アイヌー奪われしもの)
Yakko
やっと庭がきれいになった。暑い時は蚊が多くて、とても庭に出る気にはなれなかったので、手をつけられて嬉しい。桃、木蓮、松の枝を切り、トマトやピーマンを片つけ、腐食してボロボロになった木製の柵をコンクリート製に取り換え、はびこっているブラックベリーやアイビーを切り、ホトトギスを抜いた。あちこちに生えているシソは実を収穫して味噌漬けに。凝りだすと丁寧に仕事をする下の娘は、2時間もかけて10個ほどのコンクリートグロックを、カーブをつけてきれいに並べてくれた。納得がいくまで丁寧にやる彼女は、図工の時間はいつも時間が足りなくて完成しなかったそうだ。その話を聞いて、こと芸術系では「授業」という時間の枠があったり、時間内でカリキュラムをこなさなければいけないというのはおかしなことかもしれないと思った。アオツヅラフジもはびこっていて、ツルは何か編めるかもしれないととって置くことにする。パンジーとガーデンシクラメンを植えて、ひとまず終了。
9月初めの大鹿村のお祭りに行って以来、今年はあちこち参加することが多かった。その一つに入山辺・桜清水のキャンプ場で開かれた「キキソソ・チベットまつり」がある。「キキソソ!ラーギャロー!」(山や川などの神々を讃える叫び声・チベット語)と叫んでツァンパ(大麦の炒った粉のことでチベット人々の主食・麦こがし)を空に投げ、捧げて、お祭りが始まった。中国のチベット侵攻によってチベット文化が壊されることに危機感を抱いた人々が世界中に亡命している。日本にも日本人と結婚して住み着いた人たちが暮らしている。このお祭りを楽しみに日本中からチベットの人や、チベットに心を寄せる日本人が集まった。チベットの歌・踊り、松本界隈の若いアーティストの音楽、チベット医学の話、二度とチベットの土を踏むことがないであろう亡命チベット人のために、中国の支配下にあるチベットからインド・ダラムサラに2tの土を運ぶというプロジェクトを思いついた米国在住のチベット人のドキュメンタリー「ブリンギング・チベット・ホーム」の上映、そしてチベットと同様に奪われ失われつつあるアイヌ文化の担い手・OKIのトンコリ(アイヌの弦楽器)。チベットの歌では、木曽節のように森や草原を超えて遠くまで響くような歌い方が好きだ。お祭り中は、ほとんど雨だったけれどカフェ・マヤのテントの下で、みんなで買ってきては分けっこしたチベッタン・モモ(小龍包に似ている)、シャパレ(ひき肉が詰まった大きな揚げ餃子みたいなの)を食べ、バター茶を飲んだ。外食ばかりしていると出費がかさむので、又カセットコンロを持ち込んで味噌煮込みうどんやミネストローネも作ってシェア。そして雨の中、かっぱを着て踊る。
最近、池澤夏樹の歴史小説「静かな大地」を読んだ。明治政府ができて誰のものでもなかった北海道=アイヌモシリは和人のものとなった。物語は、明治維新によって士族が廃止された淡路島の侍たちが、北海道開拓を命じられ移住するところから始まる。アイヌは未開の土人として差別され文化を否定され、日本人と同化させられてきた。(土人保護法という法律が廃止されたのはつい最近の1997年)主人公の元士族の若い息子はアイヌの側に立ち、共に牧場を切り開き経営し、うまくいくのだけれど、人々の妬みなどによって悲惨な結末を迎えるという物語に、アイヌの文化が織り込まれている。アイヌの神さまは、必要なものを必要なだけくれるという。でもこれは、欲を出して必要以上のものを欲しがらないという但し書き付き。和人が来て、鉄砲でたくさんの鹿を殺して鹿肉の缶詰を売った。鹿を食べるからと狼を絶滅させた。川の鮭も乱獲した。そして、狩猟採集生活のアイヌが鹿や鮭をとることを禁じた。アイヌの名前を日本の名前に変えさせ、アイヌ語を使うことを禁じた。(朝鮮半島でも同じことを日本はしている)連れ合いのケンちゃんはチセを作る人だった。チセとは家のこと。アイヌ文化を継承する人に出会って、すべてを取り尽さないそのやり方に惚れ込み、ヨシと木と柳だけで作るポン(小さいという意味)チセをあちこちに作りに行っていた。東京の児童館や小学校にも作りに行っていたっけ。建築業に関わっていたケンちゃんは、現代の家が自然に還らない資材でできていることに嫌気がさし、すべて自然に還るチセに出会ってこれだと思ったそうだ。真ん中にアペ(火)フチ(おばあさん)カムイ(神)の炉を作り、生まれて間もない子どもと1か月間、チセで暮らしたこともある。
ケンちゃんの思い出話も出たことだし、剪定した枝もたまっているので、今度の休みには、きれいになった庭で、ケンちゃんの作ったドラム缶パン焼き窯でパンを焼こうと思う。